仙台シアターラボ
トライアル2014 劇評 佐々木久善
例えばベートーベンの交響曲第5番の第1楽章についての印象を聞いた場合「ジャジャジャジャーン」が多数派だろう。しかし「ん、ジャジャジャジャーン」とか「んジャジャジャ、んジャジャジャ、んジャジャジャジャーン」といったマニアックな意見も出されるかもしれない。かくいう私も、「ジャジャジャ」は三連符ではなく「1つの休符と3つ音符」という音楽の授業の影響か、最初に「ん」が入る派である。このようにおそらく最も有名なクラシックの名曲でさえ様々な意見の相違がある。それが初めて観る芝居ともなれば、同じものを観ているはずなのに、そうとは思えないほどの違いが生じることもあるだろう。
通常、映画や演劇は、音楽のように抽象的なものとは違い、具体的で直接的に表現される。宇宙を舞台にするのであれば宇宙空間を描き、それがアパートの一室ならばリアルにその部屋を作ってしまうという具合だ。しかし具体的や直接的と「そのまま」とは大いに違う。宇宙空間であれば究極のリアリズムは宇宙での撮影である。実際、我々はニュース等において宇宙で撮影された映像を見ることができる。だがそこから宇宙の何を感じることができるだろうか。同様にアパートの一室といっても、そこで暮らす人によって、またその人数によっても、意匠は千差万別なのである。
ここでやっと「トライアル2014」の話である。今回、私にとって一番印象的だったのは、アパートの一室での姉と弟と姉の恋人の場面である。オイディプス王を参考にした作品であるが、全体を通してそのままの場面を描くことは上手く避けられていた。しかし、この場面だけはオイディプス王を中心とするテーバイ王家の悲劇の根底にある人間関係が具体的に描かれている。
ギリシア悲劇において、オイディプスはスフィンクスの謎を解くことでテーバイの王妃と結婚し王となる。しかし王妃の兄弟・クレオンはオイディプスの敵役としてオイディプスを追放し、敵将となってテーバイを攻めた息子の埋葬を許さず、その命令を無視して埋葬を強行した娘をも殺してしまう。この悲劇を兄弟姉妹の愛情とそこに侵入した男への反発として描いた秀逸な場面だ。
ここで視線を舞台全体に広げてみよう。天井にはまるでウェディングドレスのような純白の天蓋。そこから広がるトレーンのような白幕は舞台全面を覆い床まで伸びている。しかし純白の幕の周りには血管のような赤い糸が張り巡らされている。そこに、私は結婚や「家(ファミリー)」の象徴を見た。決して幸福なだけではない結婚生活。多義性の象徴としてのベッド、そして不自由の象徴として車イスが、人物と同じくらいの存在感を持っている。
ここで思い起こされるのは劇団SCOTの代表作「王妃クリテムネストラ」だ。ギリシア悲劇のアトレウス家における夫殺しから母親殺しへと至る物語を描いたこの作品において、舞台に居並ぶ何組もの結婚する男女の傍らには全て復讐の女神が寄り添うというイメージの鮮烈さが際立っていた。
芝居を観る人が、目の前で繰り広げられる出来事を事実であると認識することは皆無であるが、深い感動を呼び覚ますことは間々ある。それは何故なのか?と私は自問していた。そんなとき人間の感覚器官の未熟さと脳の補完能力のことを聞いた。視覚にしても聴覚にしても全てが見え、聴こえるのではなく、意識したほんの一部分のみが認識され、認識されなかった隙間を脳が勝手に埋めるというものである。
そこから導き出されるのは、断片的な情報は、観客一人ひとりの脳の助けを借りて、作品として結実するということである。全てを描くのではなく、隙間を残して作品を創るという手法の有効性を物語る考え方である。
ここでやっと最初の「ん、ジャジャジャジャーン」に戻る。「ん」は休符である。作曲家の武満徹の著書に「音、沈黙と測りあえるほどに」というものがある。そこで武満は「沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」と書いている。
仙台シアターラボ「トライアル2014」において、最も重要だったのは、この「ん」なのではないだろうか。場面と場面の隙間、一つの場面の中でも、ズレた感覚。ゴダールの「パッション」の映像と音のズレについて坂本龍一が、「正確なシンクロは一つしかないが、ズレは無数に存在しており、その動機は欲望である」という意味のことを書いていた。「トライアル2014」は表現に対する欲望の大きさが感じられる作品なのである。
また女性がキャストに加わったことで、「家族」や「血」を無理なく描くことができたと思う。確かに、これまでも「家族」や「血」は描かれてきた。だが、今回のような自然さや深みを感じることはなかったように思う。
おそらく、この「トライアル2014」は観た人それぞれの記憶の中で違う作品となっていることだろう。しかしそれは決して誰かが間違っているのではなく、ましてや誰かが正解ということでもなく、観る者の数だけ「トライアル2014」が存在するという、正に舞台と観客とが共同で作り上げるという演劇でしかなし得ない作業の帰結なのである。