仙台シアターラボ ハムレットプロジェクト『継承者』劇評ラボ

仙台シアターラボ ハムレットプロジェクト『継承者』劇評

佐々木久善

 

 演劇とは何か? 仙台シアターラボの作品は、常にそれを突き付けてくる。それは観る者だけに留まらず、演じる者自身にも、同時に突き付けているように思われるところが、仙台シアターラボの突き詰め方である。

 「構成演劇」という言葉が、仙台の演劇関係者の間で普通に使われるようになった功績は仙台シアターラボのものである。

 仙台シアターラボが活動を始めた当初は、「話がぶつ切れ」とか「物語がわからない」などと言われたものだが、その独自の手法は、公演やワークショップを継続的に行うことで、次第に普及していった。

 今更「構成演劇とは何か?」ということではないが、「構成演劇」という手法と「演劇とは何か?」という不断の問い掛けとは、切っても切れない関係にあると思われるので、簡単にまとめると、演劇を「物語」にまとめることをせずに、いくつもの短い「シーン」を積み重ねることで構成するものだ。

 だから、仙台シアターラボが活動の初期に「話がぶつ切れ」とか「物語がわからない」と言われたことは、表現方法は正しく受け入れられたという事実を物語っている。問題は、観客の側に、それを理解する土壌が醸成されていなかったということなのだ。

 仙台シアターラボは、20107月に野々下孝を中心に設立された。公演と共に演劇普及のための教育も活動の中心に据えている。言うなれば、演劇の裾野を広げることで、その頂も高くして行こうという野心的な集団である。

 作品の特徴は、これまでにも述べてきたとおり「構成演劇」である。しかし、単純にテーマに沿った「シーン」を積み重ねるに留まらず、常に「テーマを越えた何か」を目指している。感覚的な表現ではあるが、「演劇の暴走」を許容した作品を創り続けているように思われる。

 今回の作品「継承者」は、「立会証」を受付に提示し、朱印を受けるところから始まる。そこには「継承者である本立会証の所持者を故障なく立会せることを関係者に要請する。」と明記されている。

 本編は、盂蘭盆会の儀式である「じゃんがら念仏踊り」から始まる。役者は、客席の後方から通路を通って現れる者もおり、会場全体が「儀式」の雰囲気に包まれてゆく。

 ちなみに、現在の主流である客席と舞台とを額縁のように区切るプロセニアム・アーチのある劇場は、グローブ座に代表されるシェイクスピアの時代の舞台と客席とが同じ屋根の下で空間を共有する張り出し舞台の劇場が衰退した後から普及したもので、「ハムレット」はもちろん、後者で演じられていた。

 舞台美術は二つの大きな円で構成されている。床面の円と、その上方に舞台と同じ大きさで、そこから飛び立ったのか?それともそこに降りようとしているのか?宙に浮く円である。

 この単純な二つの円から、私は「時間」を連想する。時の上に時が積み重なるイメージである。演劇とは、まさに、開始から終演に至る時間経過を共有する芸術作品に他ならない。

 「じゃんがら」に始まり、短い「シーン」が続いてゆく中に、ハイナー・ミュラー『ハムレット・マシーン』やジャン・ポール・サルトルの言葉等が引用さる。

 ここで思い起こされたのが、「立会証」に記された「私たちは、役柄も分からず、決まった台詞さえもなく、死にゆく親の世代と、生まれてくる子の世代に引き裂かれる現代のハムレットです。(中略)ハムレット達は、自由の刑に處せられているのです。」という言葉。

 サルトルの実存主義を想起させる文章だが、これは明らかに仙台シアターラボの「構成演劇」の現在を告白しているものに他ならない。高村光太郎が『道程』で「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」と表現した先駆者の意識である。

 『ハムレット』の第1幕第5場の台詞「この世の箍(たが)が外れてしまった。なんという因果だ、俺が生まれてきたのは、それを正すためだったのか。(河合祥一郎訳)」ここで「箍」と訳されている言葉こそ’ joint’であり、「継承」とも訳される言葉である。

 ハムレットは、自身が正しいと思う継承を実現することで、国を滅ぼすことになる。ここにおいて、継承とは、同時に破壊でもある。

 仙台シアターラボの目指す演劇の継承とは、「演劇とは何か?」と問い続ける自由な自己の探求である。そして、それは、観る者に投げ掛けられるに留まらず、演じる者自身もが不断に突き付け続けるものなのである。

 『ハムレット・マシーン』からの引用の主語が「ハムレット」から「稀人」に変えられていることは、仙台シアターラボの立ち位置を表している。

 本来、正統であるはずのハムレットは、策略によって、正統から外され、「余所者」にされてしまう。その不安定さこそが、仙台シアターラボが目指す演劇なのだと思われるのである。

 空間として用意された「二つの輪」も「時間」と同時に「箍」にも見えてくる。そして、この構造は、仙台シアターラボが挑んできた様々な題材、「オイディプス」や「カリギュラ」にも共通するものである。

 「今作は、壮大な仮説の元、創作した第一作目である。我々もいつか歴史になる、つなぎ目としての演劇人生を、この作品で考えたいと思う。」というテーマ「文化伝承装置」の結びは、仙台シアターラボが、演劇というメディアに対して、確固たる手法を手に入れたとの表明に他ならない。「自由の刑に處せられている」状態とは、あらゆる可能性が無限に広がる世界に踏み込んだことである。

 演劇とは何か? その答えは、何処にもない。しかし、その問い掛けは無限に存在する。答えのない質問への挑戦を、演じる者と、それを観る者とが共有する時間こそが、仙台シアターラボの作品である。